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Interview 02 望月龍平さん

2017/07/01

同じ演目は、同じ台詞、同じ動きなんですけれども、俳優さんによって全然違う舞台になる。そういうのが舞台の魅力でもありますね。

ところで先ほど、舞台の造り、設えみたいな話がありましたけれども、『龍平カンパニー』の舞台で、僕が見せていただいたのが『君よ生きて』『Twelve』『鏡の法則』『文七元結』。これらですが、先ほどの『エクウス』の話じゃないですけど、セットや舞台装置がスゴく簡素じゃないですか。たくさんのものが極限まで削られているにも関わらず、その世界観を見事に表現される。舞台が始まった瞬間にその世界に一気に引き込まれるんですよね。

あの世界観というのはどうやって作り出していくんですか?

それこそ、浅利さんが『余計なことすんな』ってよく言うんですよね。

「『味』は一つまみでいいんだ。それをマヨネーズを『どば~』みたいな、そういうことを芝居の中でするな」みたいなことを、繰り返しおっしゃるわけです。

そういう中で育ったからというのもあるんでしょうかね。僕もシンプルが好きなんですよね。演劇の世界は一昔前は5時間の舞台とか平気であったんです。今は時代の流れといいますか、ドンドン短くなっていって、僕の感覚からすると一幕ものは一時間45分まで、二幕もので、まあ休憩挟んで3時間まで、それもよっぽど面白くないと二幕ものの3時間は難しい…という感覚はありますね。だから時間的にも、極力無駄を省いていく。舞台装置が簡素だというのも、できるだけ無駄を省いてシンプルに…という意識は常にあります。もちろん、予算的な問題がスタートになったりもするんですけど、それ(舞台をつくる予算)がないとできないじゃなくて、それをプラスに転化するっていうことは、自分の中では大事にしているところですね。逆に、ないからこそ、アイデアが浮かんでくることもありますからね。

あと、そうですね…動き一つにしても、そこには必ず意味があるというのは、僕の中では大事にしているところですね。意味のない『間』とかが凄く嫌いなんですよ。

今、学生の舞台稽古を指導している中でも、『間』の意味というのは常に聞くんです。

「今の間って、何の間なの?どんな意味があるの?」

って。そこに何か意味があってつくりだしている『間』だったら、いくら待ってもいいんです。いらないものを削いでいった先にある本当の「沈黙」という表現をしたいときに、そのためにあえて『間』をつくるということはありますからね。でも、意味がない『間』は、稽古の段階からできる限り削いでいきたい。そこもシンプルにって考えていますね。

「君よ生きて」では単なる木箱が、時にイスになったり、列車になったり、ベッドになったりしますが、その配置を換えたりするのも、役者さんで、演じながら動かしていましたもんね。それら一つ一つの動きにも確かに意味がありました。本当にすべての瞬間に無駄がないということは、今お話をお伺いしながら、『確かに』と思い出すことができますね。

それと、見ていて僕が一番感動するのが、そこに出ている人たち全員が自分の役割をしっかり理解しているのを感じるんですよね。例えば、「Twelve」の舞台で最初に出てくる女性なんかも最初と最後にしか出てこないんですが、彼女たちも舞台に立っているときには、自分の役割に徹している。他の役者さんもそうですが、普通は主役とか脇役とか言われる区分があるんですが、龍平さんのつくられる舞台では見ていて『主』も『脇』もない、すべての人のすべての演技に『意味がある』と感じるんですよね。

それをそれぞれが理解して自分の役割をしっかり果たしている。それを見て、いつも感動するんですが、一経営者としては、それを、舞台だけでなく、企業経営やチームで何かをやるときとかに、活かせればものすごい大きな力が集団で生まれるんじゃないかと思うんですが、それをするヒントみたいなものはありますか?

僕も経営に活かしたいと本当に思うんですけどね(笑)。

経営者の方とかが、稽古場に来られることがあるんですが、それこそチームビルディングとか目的を明確に持たせることや、伝え方だったり、あるいは、考えさせることだったり、気付かせることだったり、枠を超えさせることだったり…稽古の中には経営に活かせそうな、いろんな要素があるとおっしゃいますけどね。

僕自身は、それが舞台では作れているんですけど、それを経営に活かし切れているかと言われると…(笑)まあ、それはそれで面白いですけどね(笑)。

でも、舞台の中でそれができるのは、結局、やっぱり浅利さんを見てきたからじゃないですかね。浅利慶太という人間が僕にとっては、師匠であり、親父であり、超えるべき山であり…彼のことをずっと見てきましたね。端から端まで。

さっきの話じゃないですけど、一見何の役に立ってるのかわからないような動きでも、『時計』の部品が一つでもなかったら動かないのと同じように、全体が止まってしまったりすることがあるわけです。

「Twelve」には冒頭で女性たちが入ってきて、オープニングのダンスナンバーが始まって、芝居の導入に入っていくスローモーションのシーンがあるんですね。その稽古を何度も何度もやっていたんです。メガネを取って、相手に渡して、別の小道具をもらって、それを渡して…ということを延々やっている。その稽古場を見学した方が、

「あれほどしつこく繰り返しているからどれだけ重要なシーンなんだろうと思って、本編を劇場で見てみたらほとんど真っ暗で見えないシーンだった」

っておっしゃったんですね。

でも、いくら暗くても、見ている人はいるかもしれないんですよ。

それに僕が見てるんですよ。客としてそこにいればね。だから、こだわってしまうんですよね。結局僕は『アーティスト』というよりは『職人』なんですよね、きっと。

職人気質というのは、それこそ一万人が見て、ほとんど誰も気付かないことでも、一人気付く『一流の人間』がいたときに、その人には「こいつ、ここで手を抜いたな」と思われる…自分の仕事にそういう部分があるのが許せない気質だと言えると思います。
他の誰が素晴らしいと言っても、たった一人が、例えば、龍平さんであれば『浅利さんなら気付くだろう』とか、ここ手を抜いたと思われるのが嫌だということでしょうかね。

まあ、人にどう思われるについては自分の力量だからしょうがないと思うんですよね。それよりも、自分が納得できないのが嫌なんですよね。究極、自分が見て面白いと思ったものしかできないので。もちろん一方で、いろんな人のご意見をうかがえば「なるほどね」という発見もありますけどね。やっぱりどうしたって基準は僕が面白いか…になってしまいますね。

なるほど。それでは先ほどの「どうやって全員に役割をもたせるか」の話に戻りますが、ひとり一人が自分の役割を理解する状態は、舞台稽古の中で、徐々につくられていくものなんですか。それとも、そこに集まっている人たちが、プロとして始めからそういう意識を持って集まっているということですか。

最初はバラバラですよ。それこそ劇団四季から一緒にやっていた仲間というのは、ある意味、四季で培った『共通言語』というのがあるわけです。だけど、例えば宝塚出身の人もいるし、小劇場をずっとやってきた人とか、お笑い系の人とか…いろんなところからキャリアを積んできた人たちが集まる。そうなると、やっぱり最初は大変です。『方向性』もバラバラなら、『共通言語』もないですし、そこを同じ船に乗っていくわけですよ。

だから、この船はどっちに向かって行くのか、僕の進みたい…というか『求めている』ものや、感じたい瞬間というのを、稽古の中で味わわせていくんですね。

キャストのみなさんにですか?

はい、そうです。

「龍平さんが言ってたことってこういうことなのかな?」

っていうのはキャストが演じているときはわからないことが多いんですよ。でも客席から舞台を見て初めてわかる。だから、まずは言われたとおりにやってもらって、自分の求めているものが現れてきたときに、

「それです、僕が求めているものは」

と伝える。それの繰り返しです。

そういった繰り返しの中で、役者のみなさんに、「求められているところとちがうところに意識がむいていたのか…」とか、「このシーンで伝えたいことに100%フォーカスしていなかったな」と気付いていってもらうしかないんですよね。

最終的に、舞台が成功するかどうかは、彼らが、仲間と時間をかけて紡いでいった、作り上げていった『形なきもの』を信じられるかどうかというところにかかっていますからね。公演が始まるまでに、船長の言っている目的地を目指していけば絶対に大丈夫だと信じさせられるかにかかっていますよね。

それでは、とりあえず船に乗って一緒に漕ぎながら目的地を見せていくということですかね?

実は、いざ稽古が始まってみないと、僕の中にもあまりスイッチが入っていなかったりするんですよ。例えば、今の時期であれば、7月公演をやるんですが、まだ稽古は始まっていないんですね。でもメディアのインタビューなどで聞かれれば、今回の舞台は「目的が何で…」と上辺のことは言えるんです。だけど、本当に今このタイミングで、天の計らいか、宇宙のタイミングかわからないですけど、これをやるってなっているということは、絶対意味があると思うんです。それが何なのかまでは自分でもわかっていない…というよりも掴んでいない。おぼろげながらは見えたとしても、やっぱり、感覚的には見えていないんですよね。あくまでも思考の中の「目的」にすぎない

今お話を伺っている中で、何度も『目的』という言葉をおっしゃっているんですよね。『何のために』それをやるのかということをとても大切にされているように感じるのが印象的です。
例えば、お話に上がった、7月公演(『文七元結 the musical!』/『ジェイソン・ウィンターズ物語』)における『目標』と、現時点での『目的』はどういったものなんですか?

7月公演に限らず『龍平カンパニー』としての『目標』というのがありまして、それが『継続的に舞台を提供し続けるプラットフォームであり続ける』ということなんです。

7月公演をやっているときには、すでに11月12月に開催される『君よ生きて』の横浜公演のチケット販売をしているわけですね。『カンパニー』としてそれは当たり前のことなんですが、7月公演最中はそのことだけに没頭してそれで手一杯になってしまうということが、以前は往々にしてあったんですね。確かに目の前のことに集中するのは大切なことではあるんですが、それによって『龍平カンパニー』として継続的に舞台をお客様に提供できない、空白の時間ができるということは、ある意味『罪』だと思ったんです。

なぜなら、舞台を見て「人生変わった」と言ってくださる方が、本当にたくさんいらっしゃるわけです。きっと、これからもそういう方がたくさんいると思うんですね。まだ出会っていないけれども、僕たちの舞台に出会えば人生が変わるという方が。

その方々のためにも、人生を変える出会いとなる舞台を提供し続けるというのは本当に大切なことだなと思うようになったんです。

そういう状況を作り出すというのが『目標』としては常にあるんです。

一方で『目的』は…すべての自分の活動、龍平カンパニーの活動というのは、『生きる』ことだったり『命』についてだったり、…それらが感じられる場を作る。そのためにやっているんだというのは常にありますね。結局はどの作品の、どの稽古場に行ってもそれしかないんですよね、僕の場合は。

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