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Interview 06 濱田 実さん

2017/12/26

 

うちの園では、体育活動も集中活動も基本的に上半身裸でやっていますが、他にも理由はいろいろあるんですけど、凍えることでセロトニンが分泌されるということがわかっているからなんですね。幼児期にそれを続けることで、冷え性、低体温症、生理不順、自律神経失調症、そして鬱になりにくい身体を作ってあげたいと思っています。

実際に、外へ出て体育ローテーションやったときの前後で尿を比較すると、やっぱりセロトニンが含まれている量が多いということが研究で明らかになっています。

これからの時代、子どもたちにはいろいろ大変なことがあって、僕らが経験したことのない社会を生き抜いていくことになる。そのときに一番大事なのは身体と精神で、どちらかだけでもダメ。身体がしっかりしていないと精神も病んでしまう。だから丈夫な身体っていうのは特に大事にしているところですね。

要はやっていることは、知、情、体の三位一体の教育なんですね。それが教育理念です。

この三つを伸ばすことが幼児教育では凄く大事です。

まあ、知育・徳育・体育とかいろいろな言い方はあります。

 

その後の人生を支えるだけの、身体と精神の土台作りが幼児期には大切だということですね。

 

そうなんです。感覚的なものは「つ」のつく年齢までなんですよ。躾も『つ』のつく歳までが大切です。躾は心を育てるもので理屈では教えるものではありません。『つ』のつく年齢を超えると理屈や論理的な理解が多くなります。この時期はいろんな知識を取り込んでいく、『知』が知識に変わっていく。だからそれまでにどういった『知』を入れていくのかというのが、その先の知識の入り方につながっていくんじゃないのかなって思うんですよね。

 

なるほど。僕はこれまで中高生、まあ主には高校生を中心に指導してきましたから、その経験から『理屈』を話して納得すれば、子どもたちは絶対に動いてくれるという確信があるんですね。でも、理屈で動けるようになるのが『つ』のつく年齢を超えたところ、つまり、小学校中学年以降となれば、それよりも下の年齢、とりわけ幼児期って、どういうことで子どもたちを動くように動機付けするんですか?

 

『快』ですね。

心地いいか、楽しいか、快か不快か、そして、共鳴、共感、共体験です。

それで動くか、動かないかが決まる。
だからシビアですよ子どもは。

経験が浅い先生のつまらない活動だと、子どもはすぐにダレてきます。ベテランの先生なんかは常に笑顔があって、あらゆることに対して先生の反応も良いし、子どもの反応を見て常に工夫して『快』を生み出していくので、子どももずっと集中していられます。
彼らは正直で遠慮がありません。つまらなければつまらないって露骨ですよ。
楽しかったり、心地いいと脳が快感を感じるんですね。親にほめられたり、先生にほめられたり、あるいは母親に抱きしめられるときも同じように快感を感じます。そのときに脳が活性化するんですよ。ここでいう快感は脳が喜んでいる状態です。

だから、褒めて、認めて、励ましてあげることを大事にしていますね。
子どもって本当にほめられることが凄く力になるんですね。意欲的になる。
まあ、大人もそうだと思いますけどね、子どもは如実ですね。だから理屈でいくら伝えても、聞かないです。ただ教えなければいけないことはあります。それが躾ですね。そういうものは理屈ではなく視覚的にわかるようにします。例えば家でも履き物はそろってる、園でも履き物がそろってる。毎日の生活の中で、常にみんなの履き物がそろっていると自分の履き物もそろうようになってくるものです。

そして、これがきれいなんだよ。これが正しいんだよ、これは素敵なことなんだよってことを繰り返し伝えていきます。つまり、環境が子どもを育てるんですね。

 

心地よさという意味では、授業のテンポも心地いいですよね。幼児相手だからといって、ことさらゆっくり話すようなことはせず、先生の話し方も速いし、それに対する子どもたちの反応もものすごく速い。

 

私が小学校低学年の頃は「は~い、黒板見て~。お~は~じ~き~何個あるかなぁ~。数えてみるよ~。1~,2~,3~,…」みたいなことが、よくやられていました。でも幼児はこのテンポ嫌いなんですよ。先生の話し方が遅すぎて、自分のリズムに合っていないので、耐えられないんですね。
リズムとテンポ、あの活動はテンポ感が心臓の心拍と同じリズム感にしてあるんですね。子どもの心拍数と活動がリンクしていくと、子どもは心地いいんですよね。

 

名前カードもお名前がパッと出てきたら、「はい、元気です」とものすごく反応速くお返事する。文章を読むテンポも速い。でもそれにみんなついて行っていますよね。しかも楽しそうに。実は、僕自身子どもの頃から、小学校のあいさつに対する違和感を、すごく感じていたんです。「お~は~よ~~ござ~いま~~す」っていう風に、ものすごくゆっくり言うじゃないですか。あれをあのテンポで言うのが子どもながら不思議でならなかった。みんながそう言っているので、そうしなければならないのかと思ってみんなに合わせるんだけれども、みんなもそれに合わせようとするのでドンドン遅くなっていくんですよ。である時、何年生だったかな。5年生くらいだったと思うんですけど、担任の先生に言われたんですよ。もう低学年じゃないんだから「おはようございます」を普通のスピードで言いなさいと言われて、やっと普通にあいさつできると思って解放されたと感じた記憶があるんです。でもそれは、要はこれくらいの子どもはこれくらいのスピードで話さなければ理解できないだろうという先生の側の思い込みっていうことなんですかね。

 

そうかもしれませんね。それと小学校は学習活動という全員が同じ学力を身につけなければならないという目的があります。その為に様々な子どもが聞き取れるようにという配慮がそのようにするのだと思います。子どもたちに語彙がまだ発達していないからゆっくりいってあげた方がいいだろうということもそうなってしまう原因かもしれません。

 

それが、常識というか、先入観として染みついてしまっているのかもしれないということですよね。

 

そうですね。小学校の先生は1年生の状況を観て凄く幼く見えると思います。だから赤ちゃん扱いしてしまうこともあるとのではないでしょうか。幼稚園では頼り甲斐のある年長ですが小学校では幼い頼りない1年生となります。

まあ、幼稚園の現場にも別の部分では意外と同じことがある気がしますね。イレギュラーなことを好まないというか、与えられたルーティーンをきちんとできればいいと思っているところがある。

確かに、毎日の授業が思い通りいくということは大事ですけど、思考停止状態になっている気がするときはありますね。

それは、教育界だけじゃないのかもしれないですけれども、何か、こうあらねばならない、じゃないですけど、シナリオ通りの授業をするのがいい、みたいな勘違いがあるんですよね。でも机上ならまだしも、教室では、イレギュラーなことは起こりうるし、そこをどう臨機応変に対処していくかが大事で、そうすることでイレギュラーは逆に、天の恵みのようなチャンスになるんですよね。

幼児教育って数値化出来ないし、具体的な学力というもがないので様々な観点から子どもを観ていかなければならないのでおそらくそこをすごく求められているんですよね。

自由保育も、うちみたいな一斉保育もそうだけれども、やっぱり活動の行間にどんなことを込めるのか、イレギュラーな出来事に対してどういう対応をするのかによって、子どもがよく育つチャンスが生まれますし、同時にそれは教師の力量や器を伸ばすチャンスなんですよね。それを、とっさに、感覚的に捉えるというのは、常に思考していないと閃かないでしょうけどね。

 

そういった意味では『いい教材』と言いますか、そういったチャンスがたくさんある現場だと思いますよね、教育現場は。日々予想と違う「どうしよう」ということしか起こらないとも言えますからね。

 

そうなんですよ。でも、もしからしたらそれが幼児教育の魅力だとも思ったりするんですけどね。

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