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発表しない答えの中に

2021/08/24

「問い」には力がある。

強烈な問いは、人生を変えるほどの答えを自分の中に導き出す可能性すらある。

授業も「問い」の質によって大きく変わる。

「どう感じるか」
「自分ならどうするか」
「どうしてそう思うのか」

などの、自分の中の本質に触れるような問いに対しては
答えを人前で披露する(発表する)のが前提の場合と、人には言わないのが前提では
向き合い方も、出てくる答えも変わる。

発表が前提であれば、模範的な答えを探す。
場合によっては、目立つためにあえてその逆ということもある。
本当の自分を知られたくないと思い、あえて自分らしくないことを言う。
他の人が考えそうもない視点でということを考える人もいるだろう。
先生が気に入りそうな答えや、多くの賛成を得られそうな答えを探すかもしれない。
あるいは、その全部。
要は、他人の目を気にする。どう思われるのか、どう思われたいか、どう思われたくないか。
それが考えの中心にやってくる。

「僕は、そういう場合は〇〇をした方がいいと思います」
という発表は、本心から遠く離れた理想論になる。

ところが問いはあるが、自分の中に浮かんできた答えは
誰に発表する必要もないとすると、どうだろうか。
反応やどう思われるかを機にすることなく、自由に思いを巡らすことができる。
答えに嘘がなくなる。社会のモラルからは外れるかもしれないけど「こう考える」ということだってできる。

「僕も、この人と同じ立場なら同じことをしてしまっていたかもしれない」
そういうことを考えることだって許される。

発表させる、ノートに書かせる、感想を書かせる
という行為が、「本心」から遠いところにある「同調心」へのアクセスを促す。

それが必要な時もある。
しかしそれだけだと、同調することでしか社会に存在することができなくなる。
それは、本人にとってとても苦しいことだろう。

本当に大切なことを本から学ぶことがたくさんある。
本には「問い」とその問いに対する著者なりの「考え」が書かれている。
そして「君はどう思う?」と問いかけてくる。
返事はいらないから自由に考えることができる。

たくさんの問いに出会いたまえ。
別に誰に発表する必要もない。その答えを考え続けたまえ。