一つの同じ体験に名が二つ
2021/09/09
目標を達成するというのは
たどり着けばいいというわけではない。
その過程によって、人は「喜び」を感じている。
石鎚山頂にしか売っていない「お守り」を買いに行くのが目標だとして
ヘリで山頂まで運んでもらってそれを買ってくるとしたら、
目標を達成しているかもしれないが「喜び」は生まれないだろう。
大変な思いをして自分の足で歩いてそこまで行くからこそ
「喜び」が生まれる。そして、その行程が過酷であればあるほど、得られる「喜び」は大きい。
「試練」と「喜び」は一つの行為から生まれる
その行為を完了する前は「試練」だと感じ、やり遂げた後に「喜び」という感情がやってくる。
受験でも仕事でも、スポーツでもなんでもいい。
自分が努力して試練を乗り越えて、ある喜びを手にしたことを思い出してみればわかる。
人生という時間軸で、過去からその行為を眺めると「試練」と名がつき
未来からその行為を眺めると「喜び」と名がついている。
見ているものは一つの同じ「体験」だ。
「喜びの多い人生を期待しているが、試練はできる限り小さい方がいい」
というのは幼い子供のダダと変わらない。
そもそも人生における目標は自分で定めるものだ。
誰かが勝手に定めるものではない。
そして自分が定めた目標に応じて試練の度合いが決まる。
簡単に手が届きそうな目標を設定したら、試練は小さく、それを達成することによって得られる「喜び」も小さい。
なかなか手が届きそうにない目標を設定したら、試練は大きく、それを達成することによって得られる「喜び」は大きい。
やってくる試練の大きさは自分の生き方が決めている。
それを分かった上で考える。喜び多い人生がいいか?
それを分かった上でも、喜び多い人生を望む自分がいる。