何度も経験すること
2021/09/01
「学ぶ」というのは「経験値」を上げることが大事だ。
初めて見る問題にそれまでの知識を使って対処することができることが最終目的だったとしても
実際に、初見の問題に上手に対応できる人なんてそういるもんじゃない。
それよりも
同じことが次にやってくる。
その際に、どうするかを経験から学んでおくことの方が
生きていく上ではずっと大事なことだ。
初見の問題なんて大失敗でいい。
数学の問題解説をしていると
「どうやってもそんな解き方思いつかない!」
「どうしてそんな解き方を思いつくんですか?」
と生徒から言われることがある。
先生が解法を「ひらめく」(ように見える)理由は簡単だ。
それまでその問題を何度も解いたことがある。それだけのことだ。
「こんな難しい問題、解けるはずない!」
と受験生が嘆くような問題でも、先生は簡単に解いて見せるのは単純にそれが理由である。
「数学が得意」という人は、そうじゃない人よりもたくさんの問題と出会い、解いてきたにすぎない。
単なる経験値でしかない。
その先に「ひらめき」や「勘」がある。
経験値がない人に「ひらめき」はやってこない。
つまり、どんなに簡単な問題でも初めて出会う人にとっては難問であり
どんなに難しそうな問題でも、何度も出会う人にとっては簡単である。
自然の中にある数々の法則を経験によって学び取り、知識として
人間は生活を向上させてきた。
カレンダーなど存在しない時代から
いつ田植えをするべきか、いつ頃どの野菜を植えるべきか
などはわかっていた。
もし自然界に法則性などなく、1日の長さ、一年の長さ、地軸の傾きなどが
不規則で定まることがなければ、誰も作物を育てることはできないし
時計や時間という感覚そのものがなかっただろう。
つまり人類は
自然の中に隠れている規則性を
何度も何度も繰り返すことによって発見し、
経験として身につけより良い生活をし
発見された規則性を次の世代に伝えということを
繰り返して成長してきた。
経験が難しいことを当たり前のことに変えてくれる。
そうして、新しいことに対する「ひらめき」が鍛えられていく。
「なんとなくこうだと思う」
という仮説が、真実に近くなるためには
その前に数多くの「経験」が必要なのだ。
多くの人は、ひらめきが得られないからという理由で、
やる前に「得意・不得意」を決める。
でも、得意か不得意かなんて関係なく、なんか面白そうだと思って
そこに入り込んでいった人だけが「経験」を増やし「得意」になり「ひらめき」がえられるのだ。
得意なことを探していたら、人生が終わってしまう。
だって、得意なことはいつもやっていることの中にしか育たないものだから。
どんな分野でも壁を突破しようと思うのなら
何度も何度も経験しよう。
「もういっちょこい!」
が「ひらめき」の源だ。