Now loading...

「社会」の定義は文脈によって異なる

2021/06/25

「勉強は本来楽しいものだ」
「勉強は自分を磨くための道具として最適である」

という話をする。

多くの人に納得してもらえはするが、講演後に

「でも、現実的な話をすると、なんだかんだ言って学歴社会じゃないですか」

と言われることがよくある。

「社会」そのものが「学歴」によってすべてが決まっているわけではない。
それは「その人の所属している社会(組織)における現実」がそうなのであって、
そうではない社会(組織)の中で生きていれば「学歴なんて全く関係ない」となる。

社会がそうなのではなくその組織がそうなのだ。

例えば公務員の方から
同じ部署でまったく同じ仕事をしていても貰える給料が、高卒と大卒では違っていることや
仕事ができるかどうかで出世が決まらず、学歴で出世できる人とできない人がいる現実が
目の前にあるという話を聞く。
後から入って来た、自分よりも仕事ができない後輩が数年後には上司となり自分よりもいい給料をもらっている。
何十年もそういう環境で仕事をしていたら
「なんだかんだ言って学歴がすべてなんだよ」
と子供に伝えたくなるのもわかる気がする。

一方で、大卒だろうが高卒だろうが給与や出世に関係ない社会(組織・業種)においては
苦労をして大学を卒業したことがかえって足枷になることもある。
「〇〇大学卒業ったって、大したことねえな。勉強ばっかできたって意味ねえんだよ」
なんて嫌味っぽく言われることだってある。
そういう現実もあるという事実は、勉強をしなくなった人に、もうしなくてもいいという口実を与えてはくれる。

その人の価値観というのはその人が所属している集団の常識によって作られていく。
学歴が重視される組織で生きていくことを選ぶこともできれば
そうではない組織で生きていくことを選ぶことだってできる。

だから中高校生のときにいろんな社会(組織・職業)に生きる人の違った価値観を
たくさん知れた方がいいのは間違いない。

ただ、どんな人生を選んだとしても
人生を通じて「学び」というのは、日常を楽しくしてくれるものであり、
人間性を磨いてくれるものであるという事実は変わらない。

そして、中卒だろうが高卒だろうが大卒だろうが
新しい扉を開く鍵はいつでも「学び」であるというのは
いつの時代も変わらない。