メルマガ「Leader’s Village」
2022/03/11
以下「サンプル版」です。「まぐまぐ」の申し込みページからも読むことができます。
毎週文量的には通勤の電車の中で15分くらいかけてゆっくり精読できるくらい、そしてその15分で、しっかりとリーダーとしての自らの「あり方」の軸をつくれるような内容を配信する予定です。
「学ぶ大人になろうぜ」
今から15年ほど前、学習塾を経営しているときに痛感していたこと。それは、どれだけ先生が生徒に対して、前向きな言葉がけをしてもなかなか成果が上がるものではないということでした。まあ、それもそのはずで、塾の先生が生徒と会う時間というのは、彼らの生活の中では、ほんの一部分でしかないんですね。それ以外の大半の時間を、自分が生まれ育った環境、つまり家庭で過ごしているわけです。ということは、家の中で、母親を中心とした家族からの声を一番聴いて育ってきているんですね。
現時点で生徒の性格が「どうせ自分なんて」と思うような性格になっているとしたら、それは、そう思い込むような環境で今まで育ってきて、今もその中にいると考えていい。
例えば、三者面談などをしていてよくある会話。
先生「頑張った甲斐があって、いろんな教科で結果が出てきていますが、あと『数学』だけ、なんとかしなければなりませんね」
母「先生、私も数学ダメでしたから遺伝ですね。諦めてます(笑)」
生徒「…」
こういうことが結構ある。笑って終わりにしてしまう人が多いけど笑い事じゃない。数学の苦手が遺伝するなんてなんの根拠もないのに、親にそう言われたら、子供も妙に納得して安心する。
「そうか、俺が数学できないのは遺伝なんだ。じゃあ、しょうがない」
なんて。
そうなると、どんなに授業の中で、「やればできる」「君には数学的センスがある」と伝えたところで、ちょっと壁にぶち当たるだけで、「やっぱり、自分にはダメなんだ」と思う自分に逆戻りしてしまうことは、考えてみれば当然のことだと言えますね。
だから、子供だけが教育機関に預けられて、親はお金を払ってなんとかしてもらう、という構図から抜け出さない限り、お金はかかるけど成果が上がらないということを延々と繰り返すことになる。これは、子供にとっても、親にとっても苦しい毎日になるわけです。
どうしてそうなってしまうのか。
それはそもそも大人が、自分も成長のために学ぶという選択肢を捨ててしまっているからだと思うんですよね。
例えば、中学生の息子を塾や私立の学校に行かすために、母親がパートをするという家庭は多いけど、そうやって得た収入のほぼ100%を、子供の教育費に使ってしまう。でも、少なくともその半分を、親が自分が学ぶための費用として使ったら、学んで得た知識や能力は、今後の子育てにも活かせるわけですから、実は効果は二倍以上にもなる。
子供のために働いている親は、
「あなたの高い学費のためにお母さんは働いているんだから、ちゃんと勉強しなさいよ」
と言いたくなる。その気持ちはよくわかるのだが、同じく母親が受験生ならどうだろうか。
僕のこの話を聞いて、受験生の娘を持つお母さんで、建築士の免許を取りたいと、机を並べて受験勉強を始めた人がいた。彼女は、
「仕事で疲れて帰ってきてから、資格試験の勉強をするようになって、娘に勉強しなさいって言えなくなりましたよ。私もやらなきゃいけないことから逃げたくなるときが何度もありますから」
とおっしゃっていました。
同じ立場になってみて初めてわかることもあるわけです。ちなみにその方は、親子ともども見事合格しましたが。
日本は先進国の中でも、極端に大人のための「教育費」が低い水準にあるという調査結果を見たことがあります。他の先進国では、大人になってからも、学び続けるのは当たり前だという感覚が少なからずある。日本はバブルが弾けて30年近く経つのに、いまだに、なんのために勉強するのかというと、勉強しておくと大人になってから楽できるからという幻想から抜け出せていないんだなぁと痛感します。つまり「勉強は子供のうちに頑張っておくもの」という間違えた常識がいまだに蔓延っているんですね、きっと。だから、大人になったら、勉強にお金をかけたくなくなってしまう。勉強にお金がかかるという感覚も、持てないまま大人になっているのかもしれません。
僕は高校生を指導してきましたが、教え子の多くは、
「卒業してからも先生の元で勉強したい。こんなにすごいことが学べる場所は他にないと思う」
と学びの必要性を感じてくれているような発言を誰もがするのですが、そういう想いに応えてあげなければ、と卒業してからも通えるような講座を作ってみると、誰も参加しない。本当に見事に一人も。
理由を聞くと、
「だって、お金がかかるんだもん」
だって。
学びというのは親が払ってくれるからするもんだと思っている。自分で払うものではないんですね。そうやって育っているから、大人になって、自分が親になっても、子供が学ぶためのお金を出すのが親の役割だとは思うんでしょうが、自分が学ぶためにお金を使うという習慣が育たない。今の日本の教育システムが、その常識を生んだのだとしたら、この負の連鎖は本当に多くの人の人生を不幸にしているような気がしますね。
さて、どうしてそんな「負の連鎖」が生まれるのか。
それは「何のために学ぶのか」ということが、しっかり考えられていないからでしょう。
多くの人は「資格」「履歴」を取得するために学んでいるんですね。だから、資格や履歴を取得したらもう学ばなくなる。でも、資格や履歴というものは学びの結果得られるものの中でも、おまけ」みたいなものでしかない。まあ、お菓子でも「おまけ」が欲しくて買う人はいますから、それでもいいのかもしれないんですが、でも、生涯に渡って学びを深めていけば、おまけなんてどうでもいいほど、大きなものが手に入るはずなんです。つまり、ほとんどの人が、求めている「資格」や「履歴」といったものは、学びの結果手に入るものの中でも、ものすごく小さな部類に入るものでしかない。僕はそう思うんです。にも関わらず、多くの人は、大人になって学ぶのをやめてしまう。その結果、その人たちが、最初に考えていたように、
「子供の頃にいっぱい学んでおいたから、大人になった今、楽だわぁ」
ってなっているのなら、何も問題はないんだろうけれども、そんな人どこ探してもいない。どうしていいか分からない毎日を、苦しみを抱えたまま、生きている。その苦しさを忘れる術を、お酒やテレビ、インターネットの動画などに求めて、一時の気晴らしをして、そんな時間が増えるほどに、より苦しくなるという負の連鎖をここでも繰り返しながら生きている。
足りていないのは、息抜きや気分転換じゃなく、学びだということに気づかないと、その苦しみから抜け出すことなんて難しいんじゃないかなって思う。
福澤諭吉という人が「学問のすすめ」という書物を書いたことは、誰もが知っている。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人を作らずと云り」
という有名な序文で始まるあの本は、明治時代、日本の人口が3,000万人と言われていた時代に300万部は複製されたと言われている。実に国民の十人に一人が手に取ったと考えられるスーパーベストセラーなんですね。
序文だけ読むと、江戸時代の封建的身分社会が終わって、平等な世の中になったんだよということを伝える本のように見えるけど、実際はそうではない。先ほどの序文の後には、
「それなのに、実際の世の中では、貧富の差もあれば、幸せな人と不幸な人の差が存在するのはどうしてだと思う?」
と続く。そして諭吉は結論として
「それはね、ひとえに学ばないからだよ」
と明確な答えを投げかけているんですね。だからタイトルが「学問のすすめ」。
時代は変わっても、それは変わらない。
学ぶことで新しい扉が開く。学ばない人には、次の扉はいつまで経ってもやってこない。
その傾向は、ほんの数年で社会のあり方が激変するほど時代の流れの早い今の時代において、より顕著になる。
では、どうして学ぶ人には新しい扉が開かれるのか。それは、資格や履歴を多く手にするからではないんですね。
「何のために学ぶのか」を考えて、自分を磨き続けている人だからです。
そういう人に、人生は次々と新しい扉を用意して待っているんです。
どうしてか。
それは、このメルマガで徐々に明らかにしていこうと思います。
というわけで
今週の一言
「新しい扉を開くのは、いつだって学びである」
「学ぶ大人になろうぜ」というお話でした。