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充実は不便の中に

2021/08/03

昔々おじいさんは山に柴刈りや竹取りに行きました。

もちろん薪として必要だからですが
今や、すべての家庭にガスコンロやIHコンロが設置されて
柴刈りに行く必要は無くなりました。

燃料を集めるだけで数時間かかっていた作業が
今やボタン一つ、秒でできるようになりました。

便利と言えばこれ以上ないほど便利な世の中に
僕たちは生きていますが、楽になった分幸せになったかどうかは
本当に怪しい。

本当は、柴を集めるという時間の中で経験する様々なこと
例えば、季節を感じることや、虫の音を聞くこと
歩きながら考えること、身体を動かすこと
自然を感じること、変化を感じること
珍しい動物に出会うこと、途中で木陰で休んで家から持ってきたおむすびを食べること
目的は竹取りだったのに小さな姫と出会ったり、
柴刈りの途中、桃が流れてきたりして思わず拾って帰ること(といってもこれはおばあさんか)
そういうすべての経験が「柴刈り」の中で重なり合って「充実感」を生んでいる。

だから、ボタン一つで
「チッチッチッ ヴォ」
と火がつく現代は便利ではあるが、それで「充実感」を感じることができない。

幸せや充実感は、便利と引き換えに手に入れた時間をどう使うかの中にあると思い込んでいたが
実際には、便利と引き換えになくなってしまった時間の中に横たわっていたのかもしれない。

一人キャンプやバーベキューが流行っているのは
そのことを物語っている。
便利と引き換えになくなってしまった時間を取り戻すかのように
わざわざ不便で時間のかかる方法で食事の用意をする。
それに時間がかかればかかるほど充実感は増す。

便利が幸せを生むわけではない。

数時間かかっていたことが、数秒になると
主目的とは異なる思いがけない出会いは一気に少なくなる。

だからあえて不便を選択している人は
思いがけない出会いがたくさんある充実の暮らしをしていることだろう。